エッセイ

目次

  1. 1.17 震災の記憶
  2. 北方領土と川路聖謨の生涯

【提言】大阪北部地震についての所感 2018.6.24

​ この阪神震災のエッセーの連載を続けている最中、震度6の大阪北部地震が発生した。同じく都市直下型地震のことでもあり、今回は番外として、このホットな話題に寄せて雑感を述べてみたい。

 地震は一週間前の6月18日7時58分のことであった。朝食を終えて出かけようとしているところを、いきなり襲われた。下から突き上げるような地震の衝撃は、あの20年前の阪神震災のそれに比肩しうる程であった。ただし今回は、震源が高槻方面だったために自宅に、より近いということもあってのことのようだ。幸い、本棚の本が少し崩れたぐらいで、自宅にはたいした被害は見られなかった。

 

 それより恐ろしかったことは、私の出かけるのが30分早かったら、あるいは地震の発生が30分遅かったら、あの電車閉じ込めの惨劇にあうところであった(被害にあわれた皆様にはお見舞い申し上げます)。通勤時間帯の満員電車に3時間(一部には5時間)も閉じ込められていたら、体調をおかしくしない方が不思議というものだ。

 今回の地震では、もう一つエレベーター閉じ込めという事態が300件ほどあったと報告されていた。こちらも長時間(救出完了は同日の夕刻)にわたって、悲惨な状況が続いていたようであった。私では到底、耐えきれない・・

​ 今回の地震では、幼い小学生の人をふくむ5人の方が亡くなられ、300人ほどの方が負傷された由で、亡くなられた方々の御冥福をお祈りするとともに、怪我をされた皆様の一日も早い全快を心より念じております。

さて、ここでは、前述の二つの閉じ込め問題について考えてみたい。結果的には、それらによる重大な身障問題が生じなかったことは幸いであったが、地震禍がもう一段大きかったら、それらの閉じ込め事態は甚大な被害をもたらしていたことであろう。そしてそれは、日本全国、いずれの地域においても、今日あしたにでも起こりうることでもある。決して他人ごとではないはずである。

 エレベーター閉じ込めなどは先の東日本の震災でも、阪神震災でも、繰り返し起こっていることであるにも関わらず、何ら対策が施されていない。せいぜいのところ、地震時の避難にはエレベーターは使わないようにという、ありきたりの注意が流されているばかりである。閉じ込められるのは、天災による運命的な不運、というくらいにしか受け止められていないようである。電車閉じ込め問題も、同様の感覚なのであろう。

 誤りである! これは運命的不運の問題ではない。救出体制の根本的な不備の問題なのだ。閉じ込められること自体が問題なのではなく、いつまで待っても救出措置がなされず、長時間にわたって閉じ込められぱなっしになっていることが事の本質なのである。

 電車閉じ込めを見てみよう。何ゆえに3時間にわたって閉じ込められなければならないのか。鉄道の場合、これほどの規模の地震が発生した時には、線路や架線状態をはじめとして列車運行上の障害が発生していないか、全線にわたって確認することが義務付けられている。安全運行上、当然のことだろう。

 ところが今回(今回も、と言った方がよいだろう)、全線にわたる点検作業を行おうとしても道路が渋滞で、点検チームが見回り移動することができず、そのため点検作業が大幅に遅滞して安全確認の判断を下せなかったことが、長時間閉じ込めの理由であったということだ。

 つまりエレベーター閉じ込めも同様のことであり、道路が完全麻痺してしまっているために、救出チームが各現場に到着できなかったことが、その背景事情であったということだ。

 この連載エッセーの中で、この問題を繰り返し訴えてきた。この問題こそが、阪神・淡路大震災で5000人を超える犠牲者を出した最大の理由であることを強調してきた。このきわめてシンブルな理由、だがそれが人口密集地においては自然災害を大災害へと増幅していく最大の理由なのである。

 今回の大地震では、その規模にもかかわらず倒壊家屋もあまり見られず、また朝食時間帯であるにもかかわらず火災の発生が、わずか8件しかなかったというのは奇跡に近いようにも感じる。

 同時多発的に火事が発生していたらと考えてみよう。多くの家屋が倒壊して人々がその下敷きの状態になっていたらと想像してみよう。その時、あの交通渋滞の中で消防車は現場にたどり着きえようか。重症の被災者を速やかに病院に搬送できるであろうか。倒壊家屋に閉じ込められた人々を、火災が迫り来る前に助け出すことができるであろうか。否、である!

阪神震災から20年も経つというのに、この根本的な悲劇の教訓が何ら活かされていないことに憤りを覚える。5000人を超える犠牲者が何ゆえに発生したかについての、根本的な反省がなされていない。

今回の地震が電車とエレベーターの閉じ込め程度の問題で済んだのは幸いではあったが、実はそれらは大災害の発生状況を予告していたのである。今日あすにでも、日本全国各地で起こりうる大災害の状況をである。

 地震災害そのものを逃れることはできない。地震予知も必要であろうし、建物の耐震構造も必要であろう、避難場所の確保と避難訓練も必要だろう。しかし最大の問題である救出、消火体制についての根本的な検討がなされていない。

 地震発生時には車による大渋滞が発生し、ために救出活動が妨げられ、結果として災害を人為的に増幅させ、数千人規模の大災害をもたらすことになっているという、大災害発生のメカニズムについての根本的検討が。

 喫緊の課題として災害発生時には、第一に交通網に緊急救援レーンを確保し、病院救急車、消防車、警察・自衛隊などの救援車輛の被災各箇所への急行、被災者の搬送を迅速に行いうる態勢を整えることである。

 しかもこの態勢を確立するためには、災害発生と同時に直ちに着手される必要がある。災害の発生に目を奪われ、被害の程度などの確認作業をやっているうちに、道路という道路がすべて埋まってしまっている。災害から逃げまどう人々の車と、災害現場の親族・知人を救援に向かおうとする人々の車とが、荒れ狂う濁流のようにして、すべて道路を覆いつくしてしまうことになる。こうなってしまっては、もはやお手上げである。いくら豪華で強力な救助車輛を準備していても使い物にならない。

 一般車輛の交通制限を、災害発生と同時に直ちに実施しなければならない。少なくとも、交通制限すべきチェックポイントに交通警察官など所管公務員を派遣配置して、交通制限実行の態勢を整えることだ。

 そして、一般車輛の使用は被災地からの脱出に限ることとし、親族の救援などを目的とする被災地方向への一般車輛の運転を厳禁することが枢要! 例えば、ひとり暮らしの高齢の親族を助けに行きたいという家族の思いが切なことは当然であるが、その高齢親族の方を確実に助けるためにも、この種の個別救援活動は厳禁しなければならない。この点、あらかじめ国民の理解をえるために日ごろから啓発活動を地道に行っていくことも大事であろう。災害時行動マナーとして。

 贅言を連ねてきたけれども、震度6以上の直下型地震は、日本全国各地において、今日あすにでも発生しうる状態に日本列島はあるように思われる。震度5クラスの地震は、現に各地で頻発している。自然災害の発生は防ぎようもないが、その災害を大災害へと増幅することなく、最小限度にとどめるためのよすがともなればと思い、駄文を草した次第です。


​ その日、1995年1月17日、私は京都(長岡京市)の自宅にいた。前の晩、東京の用事をすませて遅く帰宅し、片づけておかねばならないものもあったことから、夜通しの仕事をして、床についたのは夜明け近くの五時半頃であった。

 床について間もなくのこと、急激な揺れが我が家を襲った。かつて経験したことのない揺れ。いや、揺れと言うよりはむしろ、強烈なネジレに巻き込まれたような感覚であった。起きて安全な場所に身を移そうとするのだけれど、ネジレの力に体が押さえつけられて立ち上がれない。家はきしみ、ネジレ潰されんばかりの恐怖に包まれた。

 ひどく長く感じたけれど実際には1分ぐらいのものだろうか、ようやくその名状しがたい重力の苛みから解放された。妻がテレビをつけて地震の速報を聞いたのだけれど、震源がどこかよく分からないという。その頃、東北地方から関東方面にかけて地震が多発していたので、これはその頃言われていた関東大震災の発生ではないかとも疑った。そのうちテレビでは神戸方面が震源と伝えるようになったが、肝心の神戸の映像が入ってこないので事情不明と繰り返していた。

 「神戸?!  神戸に地震は起こらんよ、眠いから寝る」といって、寝入りばなを妨げられた忌々しさを振り払うようにして熟睡の淵へと沈んでいった。神戸に地震は起こらないというのは、その当時、わりと広く信じられていた神話であったのだが・・

 妻のさけび声によって叩き起こされたのは7時過ぎであったか。その時、テレビの画面には神戸、芦屋、西宮方面の惨状が映し出されていた。

 共に未亡人となっていたのだが、妻の母は神戸市東灘区の御影に、私の母は西神戸の垂水に暮らしていた。だが、どちらとも全く電話が通じない。テレビの画面は、特に御影、芦屋方面の壊滅的な情景を相次いで映し出していた。家屋はいずれも倒壊、破壊され、火災も生じており、無事な家は数えるほどもない有様。ダメか・・ 私も妻も、口には出さないが思いは同じであった。

 しかし確認をとろうにも、電話がまったく繋がらない。神戸方面の誰彼となく連絡をとろうとしたが、いずれも不通であった。かくなるうえは行くしかない。しかし鉄道は完全に麻痺している。他方では、救援に向かおうとした数多くの車両が、寸断された道路の中にひしめき合って、身動き取れない状態となっていた。

 

 どのように被災地へ入ればよいのか、経験の無い我々の前には、惨状をきわめる被災地への入り方そのものが未知の困難となって立ちはだかっていた。

阪神・淡路震災から23年が経過した。私自身も古稀になんなんとするような齢に至っている。震災の経験の風化も言われて久しい。たいした話でもないですが、震災翌日に、はからずも震災地域の東端から西端までの現地を目にするという稀有な体験をした者として、それを文字にして震災の記憶を留めおくことに意義がないでもなかろうと思い立って書き記すことにした次第です。

阪神淡路大震災の光景

1.17 震災の記憶 Ⅱ 2018.2.17

 神戸方面の事情がようやくつかめたのは、当日の夜遅くなってであった。それも直接にではなく、姫路に在住する妻の姉夫婦からの連絡によってであった。震災は神戸市の西に位置する明石市、姫路市にはあまり被害をもたらさなかったことから、姫路からの電話はかろうじてつながり、その情報がわれわれのいる京都へともたらされたわけであった。

 それよって、ともに未亡人である妻の母も私の母も幸いに無事であることが確認された。妻の母のいる御影、芦屋方面はことに激震に見舞われており、上空から撮影されたテレビの報道画面では、無事な家など見当たらないほどに壊滅的な光景が広がっていた。

 よくまぁ無事に、というのが率直な思いであったが、よく聞けば、家は二階が傾き倒壊寸前とのことであった。本人は茫然自失の状態だと言う。余震があったら圧死ではないか、茫然自失している場合ではないだろう。とにかく体育館でも学校でも、近くの公共施設に避難してもらうようにとの、姫路とのやり取りであった。

 私の実家の垂水、舞子方面については、少なくとも当面の家屋倒壊は免れており、私の家も母も無事である由を聞いて、先ずは安堵した。ところがあとで行ってみて、外観の表面的な無事とは裏腹に、内部の恐るべき惨状に息を呑むことになるのだけれども。

 私の勤め先の国際日本文化研究センターには、その日のうちに赴いて当面の懸案事項の手当てを施しておいた。事務方の人には、明日から日数不定で音信不通になるかも知れないけれど、万端御配慮をと言い託し、震災の翌朝から被災地へ乗り込んでいった。

 防寒服に身を包み、背中のリュックにはホカロンと水のボトルを詰めるだけ入れていた。一月の厳寒の中、被災地全域にわたって電気、ガス、水道の都市インフラが壊滅状態と報じられていたから。

 交通機関はというと、阪神間を並行して走っている阪神、JRはほぼ全面的に麻痺状態で、阪急だけが被災地域に一番近くまで運転されていたので、これで西宮北口駅まで到達した。阪神地域でも、いちばん海側を走る阪神電鉄の下の地盤は軟弱で被害は甚大、山の手を走る阪急の場合、その地盤が安定していて比較的、被害は軽くて済んでいた。

 しかしそれでも西宮北口駅が限度で、そこからは歩くしかない。みんな同じような出で立ちで、やはり救援物資を詰め込んだ重いリュックを背負った人々が黙々と、自分の親族が待ち受ける被災地を目指して歩いていく。

 自動車は? 自動車と道路は、すでに麻痺状態に陥っていた。震災当日、みんな一斉に自動車を使って被災地に向かったために、身動きの取れない状態になってしまったのだ。

 実際それがため、救急車も消防車も被災地に向かえず、負傷者が死者となってしまい、火災発生の二次被害によって、悲惨な状況をいたるところで現出させていたというのが、あの震災の痛ましい教訓であった。

 警察や公的機関は、それをどうして整理できなかったか。だが、その警察署そのものが崩壊しているという事態、そして自治体首長をはじめとする公的機関の構成員が出勤前に自宅で被災しているわけであるから、公的機関が全面停止の状態に陥っている。この大震災による混乱を前にして、誰もなすすべを知らない。アナーキーとは、これを言うのかと慄然とするばかりであった。

 さて自分の進むべき経路であるが、主要幹線道路はいずれも麻痺状態の上に、沿道のガス、石油タンクがひび割れをおこして燃料が漏出しており、引火爆発を起こすかも知れないということはテレビで聞いていたので、それは避けて脇道を行くしかなかった。

 しかし脇道を進むとは、つまるところ住宅街を抜けていくことになるのだが、これがひどかった。家は倒れて道をふさぎ、電柱は傾き、電線が垂れ下がってゆく手を阻む。多くの家では一階部分が圧殺されて二階が地面に接している状態。そんな光景が、これでもかとばかりにどこまでも続いていく。

 何かのはずみで自分が空想映画の世界に連れ込まれ、あてどなく彷徨っているのではないかと思いまがうばかりであった。

 現実であれ夢であれ、進もうとしても様々な障害物に行く手を遮ぎられ、引き返しては別の道を選び、それが不可と分かるとまた新たな道を求めなければならず・・と。

自分がまるでラットゲームのラットにされてしまったかと自虐的な幻想にとらわれる。
この迷路を抜け出すすべは果たしてあるのだろうか。

 つまるところ、西宮北口駅の次の駅(夙川駅)にまですら到れなかった。この地域の道事情に不案内ということもあるが、我が身の非力と、翻っては日頃の交通機関のありがたみをしみじみと実感するばかりであった。

 これでは、神戸市西端の垂水・舞子は言うまでもなく、御影にすらたどりつくのは到底不可ではないか、と。

 実はこの段階でギブアップというのは、多くの人が痛感していたところで、脱落者が続出することになった。私ももう無理と、撤退を覚悟しなければならなかった。そして尻尾を巻いて、とぼとぼと引き返そうとした時、突如、天恵に見舞われた。

 この廃墟と化し、人の気配も消え失せてしまっているかに見えた住宅街に、一つの店が開いているではないか。それはその時の私が、心底より希求していたものを商っていた。  

 自転車だ!!

1.17 震災の記憶 Ⅲ 2018.3.17

この震災の場を経験した者として痛感し、またこの後も繰り返し発生するであろう震災に対する教訓として伝えておきたいことの一つが、前回にも述べたけれど、震災発生時には自動車は決して使ってはならないということだ。自動車は明らかに、震災被害を拡大させる原因となっている。

 自動車は迅速に、そして家族一緒に災害から避難できる最適の手段であると思われがちであるが、それが大きな落とし穴となっている。みんなが一斉に自動車を使って避難を始める、あるいは身近な親族・親類を助けようと自動車で被災地に向かおうとする。

  しかし大震災の直後の道路は寸断され、高速道路の橋げたは崩落して道をふさぎ、あるいは車両同士の衝突事故などによって、通行困難になる地点が随所に発生する。こうして被災地およびその周辺には大量の車が渋滞することとなり、どの車も身動きつかないままに、道路を完全に機能不全に陥らせてしまう。

 この状態が、震災被害を拡大させる最大原因になってしまう。被災者を搬送するための救急車も、崩落した家屋・ビルに閉じ込められた人々を救出するための救助隊の車両も、そして被災各地で発生している火災を消化するための消防車も、すべてこれら道路を完全に塞いでしまった大量の自動車のために、被災地に到達できないという悲劇的な状態に陥ってしまう。

  これが、震災被害をどれほど増大させていたか。重傷者を病院に移送できないために死者に追いやったのもさることながら、最も心痛まされたことは、各地で火災が発生したために、崩落した家屋に閉じ込められていた人々が、生きながら焼死させられるといった事態がいたるところで発生していたということだ。これとても、重機をもった救助隊や消防隊が到達しておれば助かったはずの命を、むなしく喪わざるを得なかったことは痛恨のきわみであった。

 これら交通障害の無秩序を整理するための警察は何をしていたのかということだが、阪神震災のケースでは、警察署自体が大きな被害を受け、震災発生が未明の出勤前であったことから署員もまた被災者となり、警察機能全般がマヒ状態に陥ってしまっていた。

  しかし仮に警察機能が十全に働いていたにしても、四方八方から必死の思いで被災地に押し寄せる大量の自動車の襲来を前にしては、お手上げ状態になるのは時間の問題であろう。そして実際、近隣府県から応援の警察車両が阪神方面に入ろうとしていたのだが、大量の渋滞車両に行く手をはばまれて、救援活動をなしえなかった。大都市の震災では、この面での障害が著しく増大していくことが考慮されなければならないであろう。

 この教訓は、あまり伝わっていない、あるいは忘却されてしまっているかに見える。また今日の体系的な震災対策や避難訓練にも組み入れられていないようであるが、震災時に自動車の使用は厳禁という点が忘れられてはならない。災害発生時に交通規制することは指摘されるまでもないと思う人がいるかも知れないが、規制する警察機能自体がマヒしてしまうケースすらあることを見落としてはならない。

  阪神震災は百万人規模の大都市において、これら災害時に公的規制を担当するはずの警察・行政機構それ自体が、機能マヒに追いやられてしまっている点においても極限的なケースを示している。

  震災時に自動車を使うなというのは酷なように感ぜられるかも知れないが、真に、ひとりでも多くの人を助けたく思うのであれば、そして災害の増大を防ぐためにも、この点の徹底こそが阪神・淡路大震災の教訓ということである。

1.17 震災の記憶 Ⅳ 2018.4.19

 震災後の阪神間の道路は、親族の危難を救おうと外部から押し寄せた大量の自動車によって身動きのつかない状態となっていた。さりとて、徒歩で進もうとしても困難をきわめた。電車が辛うじて動いていた阪急西宮北口から先は徒歩で進むしかなかったのであるが、自転車を入手できたことによって、一気に問題は打開された。

  さて、自転車を入手してからは困難な状況も突破できるようになった。あいかわらず幹線道路は使えず、被災家屋のつらなる住宅街の小道に沿って行きつ戻りつを強いられるのであるが、やはり徒歩の場合と引き比べれば肉体的にも、精神的にもはるかに余裕ができた。水と防寒用のホカロンを詰め込んだ背中のリュックの重みも、自転車は引き受けてくれるのだ。 

 こうして牛の歩みを重ねつつも、夕景にさしかかるころ漸くにして、妻の実家の御影にたどり着いた。芦屋、御影の惨状はテレビですでに知ってはいたが、実際に現地に足を踏み入れて目の当たりにした時、そのあまりの凄まじさに言葉を失うのみであった。

 空想映画のセットではないかと目を疑うばかりであった。高速道路の高架はいたるところで崩落し、巨大な支柱がねじ折れ破壊されていた。一般家屋は全壊や半壊の状態で、無事なものは皆無であった。まれに無事かと見えた家屋も、実は一階が踏みつぶされて、二階が地面の上にすわっているという有様であった。

 妻の実家の場合は、二階が大きく傾いて張り出しながらも、辛うじて持ちこたえているという状態。幸いに強い余震がなかったので保っているものの、あれば確実に一階もろとも崩壊していたことであろう。

 阪神震災の大きな特徴は、震度5クラスの余震がなかったことである。最初の一撃で全エネルギーを放出してしまったと見えて、恐れられた強い余震のなかったのは幸いであった。あれば妻の実家もふくめて、より多くの家屋がクラッシュして犠牲者を増やしていたであろうから。

 この点で、近時の熊本震災の方々の苦難に思いがおよぶ。一度だけでも尋常ではないのに、震度7クラスの地震が連続的に発生するという事態は想像を絶する。熊本の一日も早い全面回復を祈りたい。

 さて未亡人であった義理の母の行方はというと、近所の体育館に近隣の人々が避難している由なので、向かってみると打ちひしがれて半ば放心状態であったけれども、私の顔を見てわれを取り戻したかのようであった。何よりも命が無事であったことを喜び合い、持参のホカロンで暖をとってもらった(水と食料の配布はなされていたようであったが)。

 暫くそこで過ごしたのち、暇を乞うて、それより自分の実家のある西神戸の垂水へと向う。頃はすでに晩景におよび、光なき道を西へと進まなければならなかった。神戸の中心街である三宮、元町をすぎる頃には、冬の一月とあって夜のとばりがしっかりと下りていた。

1.17 震災の記憶 Ⅴ 2018.5.17

 今はどんな夜中であっても都会の道には赤々とライトが灯されている。しかしこの震災の直後の神戸の街は、すべてが闇のただなかに置かれていた。周辺部はのぞいて市の中央一帯は完全停電なので明かりは皆無であった。補助電源も被災していたと見えて、明かりらしいものは、自分の自転車のライトのほかには、たまにみかけた警察官の手持ちライトぐらいなものであった。

 しかし三宮・元町あたりのビルの姿は今も記憶に残っている。ビルの形が視認できたのは、月明かりによってのことだったのだろう。私が神戸の夜の街を走っていたのは震災翌日の1月18日のこと。その日の月齢を調べてみると16.7日にあたっていたことが分かった。いわゆる十六夜月、それで街灯が皆無であっても街の姿が記憶に焼きつけられていたのだ。

 灯りがすべて消滅した都会のビル街を通るというのは、後にも先にもこの時だけのことで、その意味で稀有な体験であったと思う。幹線道路は沿道の液化ガスタンクが爆発する恐れがある由で避けねばならず、ビルの谷間を進むのであるが、いずれのビルも激しく破壊されている。

 まれに無事であったかに見えるビルも、目をこらして眺めるならば、建物の5階と6階との間であろうか、一階分が押しつぶされて完全消滅してしまっている・・。

あたかも顎砕けの姿に他ならず、そんなビルが右にも左にもある。ただ慄然とするばかりであった。

 立ち並ぶ高級品店のショーウィンドウは亀裂がいくえにも走っており、デパートでは二階のフロアが崩れ落ちて一階に接していた。いずれのビルも窓ガラスが割れ、窓枠ごと破壊されいるものも少なくない。無事な建物は、いったいどこに残されているのかという恐怖にかられた。深い闇に包まれた死の街の姿。

 恐怖はもう一つあった。ビルの谷間を通っているとき、それら崩壊したビルの窓ガラスの破片が降ってくるのである。暗くてよくは見えないけれど、細かなガラスの破片があちこちで降っている。かすかにサラサラという音が聞こえてくる。安全だと思ってこの道を選んだことを、今更ながら強く後悔していた。実のところ一番危険な道を選んでいたのだ。

 強い余震があれば、どうなる。ガラスの雨が頭に降り注いでくるばかりである。想像するだに、おぞましい。しかし引き返すには、すでに道を深く入り込みすぎていた。ままよ!

何とかビルの合間を通り抜けるまで、揺れの起こらないでくれと一心に念じて走り抜けた。よくも無事に通り過ぎえたものである。

 神戸の中心街を抜けると、こんどは長田地区になる。ここは市場街として知られたエリアなのであるが、震災直後に大火災が発生して壊滅状態となっていた。一面、焼け野が原の有様。家、建物はほとんど目にすることはなかった。ここもまた別の姿をとった死の街の暗闇であった。

 長田区を後にして進んでいくと須磨区に入っていく。古くからの住宅地区である。焼け野が原となってしまった長田区と風景は一変するが、こちらは震源により近いこともあって家屋の倒壊が著しい。積み木崩しさながらに家が倒れている。一見、堅牢そうな住宅があっけなく転倒している。家の底を向けて倒れているのである。その脆さ、はかなさに心を奪われ暫し見入っていた、自分の行動の目的も忘れて。

気を取り直して前進を再開する。自転車の利便で、倒壊家屋の隙間を縫うようにしてすり抜けていくのであるが、ついに完全に横倒しとなって道を完全にふさいでしまう家屋に行き当たってしまった。

 ただしこの時には他にもお仲間があった。みんな、ここで行く手を阻まれて難渋の体であった。道路の横はJRの線路であり、高フェンスの金網の状態であったのだが、誰言うともなく、このフェンスを乗り越えよう、自転車ともどもに!

 かなり高さのあるフェンスである。自分ひとりがよじのほるのが精いっぱいで、自転車まではとても無理に思えたのだが。それが火事場のバカ力というやつであろうか、私も加わってそれぞれの自転車を下から押上げ、フェンスの上にいる人間が引き上げ、そして金網の反対側にいる人間に受け渡すのだ。そして同じ手順で、線路の反対側のフェンスを越えて3人、3台の自転車が線路の反対側の道へと渡された。

 今から考えると、そんな無理をせずとも、しかるべき踏切りの場所を探して、そこで反対側の道に移ればよさそうに思うのだが・・ これも特異な状況の下にあることから来る、一種の精神的な高揚感からであろうか、立ちふさがる困難に対して、引き下がるのではなく、それを克服したいという意欲がまさってしまったのであろう、高いフェンスを乗り越えるという選択を誰も疑わなかった。例外状況における特有の精神的高揚といったものであったのかも知れない。

 ともあれ協力してフェンス乗り越えの難事をこなした3人は、相互に感謝の言葉を交わし、その行く手の無事を祈念し合いつつ、それぞれの目的地へと向かっていった。

このような紆余曲折を経て、垂水の実家にようやく到達したのは夜の8時頃であったろうか。10時間近くの旅を経てのことであった。

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第1回 いわゆる「北方領土」問題について 2017.7.18

 司馬遼太郎さんの小説『菜の花の沖』は、江戸時代の文化年間1804~’18)、蝦夷地交易に従事していた淡路島の船主髙田屋嘉兵衛による日露交流を描いた名作です。

当時、千島列島と樺太(サハリン)を南下していたロシアは、北辺の守備を固めていた日本と接触し、

ロシア人船長が日本側に囚われたことなどから開戦間際の危険な状態にありました。

そのような中で髙田屋嘉兵衛の船がロシア側に拿捕されます。しかし剛毅な嘉兵衛はロシア人と信頼関係を築き、また日本側役人を粘り強く説得して双方の人質解放にこぎつけ、この紛争を平和裡に解決しました。

ロシア側も嘉兵衛の男気あふれる行動にいたく感銘を受け、日露両国はこの事件を機として善隣友好の関係に入っていきます。

両者は平和的に棲み分けることとし、千島列島はエトロフ、クナシリ、ハボマイ、シコタンが日本の領分とされたのでした。

その後この関係を踏まえて、米国ペリー提督に続いて日本に来航したロシア使節プチャーチンと徳川幕府との間で条約交渉が行われ、1855年2月7日(安政元年12月21日)、日露和親条約が締結されます。

これによって千島列島については、前記4島を日本領土とすることが条約上に明記されました(樺太については両国民雑居と規定)。

この日露和親条約はいわば日露友好の原点。もし日露双方がここに立ち戻ることができるならば、今後の日露関係は千年の平和と友好を約束してくれることでしょう。

今回の日露首脳会談(2013年4月29日、モスクワ)において、プーチン大統領はなんと1855年産のワインを安部首相に宴席で振る舞ってくれました。

プーチン大統領も心の底では、この日露和親条約の原点に立ち戻ることが最善の途と感じているのかも知れません。

引用元:『読売新聞』「ひだまりカフェ」2013.5.9

第2回 川路聖謨と日露和親条約 2017.8.12

 川路聖謨(カワジトシアキラ)という、読み方の難しい名前の人物をご存知でしょうか。

吉村昭さんの小説『落日の宴』の主人公なのですが、一般的には無名も同然の扱われ方をしています。

例えばNHKの大河ドラマ50年の歴史において、彼を主役級で取り上げたことは言うまでもなく、細々たる端役としてすら名前が掲げられたことが一度もないといった有様です。

 

この点においてNHK大河ドラマの罪責はきわめて重いと言わざるを得ません。なぜなら、この川路聖謨は、日本の幕末史において最も重要な役割を演じた人物の一人と評して差し支えないからです。

彼の最大の功績は、日露和親条約を締結して、エトロフなど北方四島を日本領土として確定したところにありますが、のみならず、幕府勘定奉行という要職にあって、幕府官僚陣を指揮して日米通商条約など一連の国際条約を締結し、近代日本の礎を築き上げるという大きな仕事をなしとげていたのです。

 

このときの条約を不平等条約などと書かれていることがありますが、決してそういうことはありません。堂々たる対等条約です。

日米通商条約などに外国側の治外法権が認められていることをもって、その理由とされていますが、川路が締結した日露和親条約には、日露両国民が相手国内で犯罪を行ったときには、それぞれ相手国に引き渡し、その自国の法で処罰することが明記されています(同条約第八条)。

完璧な対等条約です。それでは日米通商条約ではアメリカ側の裁判権のみ記されていて、相互裁判権の規定が無いのはなぜかというと、その当時、日本人がハワイやカリフォルニアに出かけていくことなど考える必要もないから記されていないというだけのことです。

日露間では北方で、両国民が相手国内に入って交易するという状態にありますから、犯罪発生時の裁判権が問題となり、双方の裁判権が明記されたのです。

川路が締結した日露和親条約は、北方四島を日本の固有領土として確定するのみならず、外国側との相互裁判権まで明記していました。堂々たる対等条約ではないでしょうか。

アジアの諸国はもとより世界中の国々が、欧米列強の圧迫の下に不平等条約を強いられ、植民地化の途を余儀なくされている中で、日本が独立を保ち、近代国家への歩みを進めていけたのも、この幕末の国際交渉の成果が大きな力をもっていたということです。

 

このような偉業を達成した川路聖謨ですが、彼は何と農民の出身だったのです!

次回は、この川路の出自と、幕府勘定奉行にまで昇進しえた徳川のドリームについてお話したく思います。

第3回 川路聖謨の生涯 Ⅰ 2017.9.25

 川路聖謨トシアキラは享和元(1801)年4月、豊後国(大分県)日田の代官所構内の小屋で生まれました。幼名は弥吉。父の名は吉兵衛、甲州出身の農民でしたが、九州日田で代官所の下級吏員に採用されたのです。

 

その後、吉兵衛は日田を離れ、一家をつれて江戸に出て就職運動をします。そして、ここで幕臣の「御徒オカチ」の株を入手します。幕府の下級身分の武士(これを「御家人ゴケニン」といいます)となったのです。

これは違法行為かというと、そうではなくて、八代将軍吉宗の享保改革の頃から、農民などの一般庶民が「御家人株」を買得するという形をとって、下級幕臣の身分に参入することは容認される方向にありました。上級幕臣(「旗本」)の身分を金で買い取ろうとすると、これは厳しく罰せられたのですが。

しかし下級幕臣である御家人の方は、容認されるようになりました。旗本身分を買得しようとする圧力をかわすという狙いもあったことでしょう。

「花は桜木、人は武士」といって、太平の世にあってもお侍は憧れの対象であったようです。

下級幕臣の身分売買には、もう少し切実な問題もありました。上級幕臣である旗本はすべて世襲身分です。しかし下級幕臣には、「一代抱え」といって本人一代限りでの雇用という身分が少なくないのです。

その者に実子がある場合には、親が老齢で解雇されたのちも、その跡に実子が優先的に召し抱えられるという形をとって、事実上の世襲相続がなされました。

しかし実子がいない場合には、養子による継承は認められませんでした。完全解雇になってしまいます。

退職金の制度などはありませんから、老齢解雇された人間はたちまち飢渇に迫られます。そこで生み出された便法が「御家人株の売買」です。老齢退職して空いた下級幕臣の口を、希望者に買得させるのです。こうして得られた金銭を、老齢解雇された人間に養老資金として授与するという仕組みです。

結構、合理的なやり方でしょう。もちろん、御家人株の売買を仲介世話した幕臣たちも恩恵に預かったことでしょうが。

御家人株の売買は多岐にわたっていましたが、中でも人気のあったのが「御徒オカチの株」でした。神田御徒町にその名を今に残す御徒ですが、下級幕臣ながら足軽などよりは、かなり高い地位にあり、将軍の出行時にはその護衛兵として随従するのが任務でした。

1組30人で20組、計600人からなっていました。ここに老齢退職や転任によって欠員が生じると、その空き口が株として売買の対象となったのです。今日の相撲の世界における年寄株の売買に似ているかも知れません。

さてその御徒の株の値段ですが、100両から300両あたりが相場であったようです。今日の1000万円から3000万円あたりでしょうか。値段に幅があるのは、その時々の売り手と買い手との需給の逼迫度によるものでしょう。

一括支払いができないから、頭金だけ払って、残りは分割支払いなんていう契約もありました。まるでマンション購入のような話です。なぜそんなことが分かるかというと、約束した残金の分割支払いがなされず、トラブルになって明るみに出たからです。

御家人株の話が長くなりましたが、これ自体、徳川のドリームを構成する重要な要素の一つであるということと、なぜ農民出身の川路が幕臣として活躍できたかの背景説明として不可欠だったからです。

第4回 川路聖謨の生涯 2017.10.14

 さて江戸に出て就職活動をしていた農民吉兵衛は、首尾よく御徒の株を入手することに成功します。定めし九州日田の代官所の下役人をつとめていた時代に蓄えた資金を投じたことでしょうが、こうして吉兵衛は下級身分ながらも幕臣に連なり、幕府御家人・御徒の内藤吉兵衛と唱えて、一家は牛込の御徒組屋敷に移転します。ちなみに、御徒の家禄は70俵5人扶持で、石高で表現すると95石に相当とされます。

 そののち文化9(1812)年に倅の弥吉は、やはり下級幕臣であった川路三左衛門の養子となります。これは御家人株ではなく、持参金付き養子の手法による送り込みと思われます。というのは、養子に入った翌年に元服して、そのまま家督を相続しているからです。これは弥吉を養子に迎え入れたら直ちに家督をゆずるという契約が内藤家と川路家との間であらかじめなされていたことを示唆しています。もちろん持参金がものを言ってるわけでしょう。弥吉は元服して、聖謨トシアキラと名乗ります。

 さて、内藤吉兵衛の野望は着々と繰り広げられていきます。実はこのあと、吉兵衛は次男も同じ手法を用いて下級幕臣の井上家に送り込み、三男に内藤家を継がせます。吉兵衛はこうして幕臣三家を手中に収めることとなりました。

 しかも吉兵衛の手段は金だけではありませんでした。三人の子供たちに対して幼少から徹底したスパルタ教育を施して、学問による出世の道筋をつけておいたのです。幕臣となったのちも、人から農民の出自だという嘲りを受けることがないように、高い教養を身につけて他人から敬意をもって接せられるような立派な武士になれという教えでした。

 学問といってもこの時代のそれは、『論語』『孟子』といった四書五経を中心とする儒教の修得ですから、直接にはあまり行政実務に役立つようなものではありません。それでも幼少期からむつかしい漢字や漢語を学習していると知能一般の発達をもたらし、行財政の実務を処理していくうえでも寄与するところは少なくないでしょう。

 ことに後述するように、川路は裁判所書記官として司法畑で出世していくことになるので、父吉兵衛によってたたきこまれた基礎的学問がのちのち生きていくことになります。実は弟の井上清直はのちに外国奉行となって、かのタウンゼント・ハリスと交渉して日米通商条約を締結するという出世ぶりです。三男(内藤由章)もまた優秀で、内藤三兄弟は、いずれも下級身分の幕臣の地位から出発して、最終的には三人ともに世襲家禄500石の中堅旗本の地位を獲得しています。

 この当時、幕府の官僚制度はもちろん幕臣である武士によって構成されているわけですが、身分制度によって凝り固まっているわけではありませんでした。それどころか、実はたいへんな能力主義の世界であったのです。

​第5回 幕府勘定所の能力主義 2017.11.20   

 18世紀の初頭、日本の時代区分で言えば元禄時代が終わりを告げて、八代将軍・徳川吉宗の治世にあたる享保時代の頃、幕府もふくめて全国の藩(大名家)では深刻な財政窮乏に悩まされていました。

 

 元禄時代というのは、経済も発展して好景気が続いた上に、幕府の政策として通貨の金銀の純分切り下げによって通貨数量が一挙に増大し、通貨バブルの要素も加わって社会全体は著しい活況を呈していました。

 

 このような好景気に支えられて、いわゆる元禄文化が花開くことになりますが、武士も大名も華美な文化に酔いしれるまま、歯止めなき放漫財政に陥っていきます。参勤交代で全国の大名は江戸に集まっていましたが、みんな江戸の華やかな生活に浸りきっていて、藩の財政収入には限りのあることを忘れて散財と伊達比べに明け暮れていました。まるで、かのバブル時代の日本社会を思わせるような有り様でした。

 そして目が覚めて気がついた時には、そこには膨大な借金の山が残っていたということです。文字通り「宴のあと」です。その始末をしなければならないということで、いずれの藩でも財政改革に乗り出すことになります。

 しかし財政改革を進め、このような財政破綻を招いた原因を探るうちに、そもそもこのような破綻は、ろくに財政知識も無いのに、身分の高い家柄の家臣たちが藩財政をつかさどる勘定所の要職を占めており、御徒や足軽クラスの下級武士はいくら能力があっても、下級役職にしかつけないという組織上の矛盾が根本的な問題であるということが明らかになっていきます。

 そこで財政改革は、自ずから組織改革へと向かわざるを得なくなってきます。つまり身分は低くても能力のある者は、枢要の役職に抜擢すべきだとする能力主義的改革です。しかしそうすると、旧来からの門閥派の家臣たちは黙っていません。旧来からの秩序や権利関係を覆す策動だとして反撃の構えを見せ、こうして組織改革はお家騒動へと発展していきます。そして不毛の抗争が続いたすえに、藩は疲弊し、自滅していくというパターンが少なからず見られました。

  [足高制――能力主義的昇進のシステム]

 この課題について、吉宗の指導する徳川幕府は独自の組織改編を試み始めました。それは「足高【たしだか】の制」と呼ばれているものです。

 

  足高制というのは高校の歴史の教科書にも取り上げられていることから、ご存じの方もあるかと思いますが、吉宗の享保改革における人材登用政策のうちの代表的なものです。

 それは享保8年(1723)に導入され、表1にあるように、幕府の各役職のそれぞれに基準石高(これまで就任してきた幕臣の標準的な石高。各役職の身分的基準を表現)を設けておき、家禄(幕臣各人の家につく世襲の石高)がそれに満たない小身の幕臣をそれらの役職に任用する際には、その基準石高と家禄との差額を「足高」として、役職就任中のみ支給するという形を取ります。

 

 たとえば江戸町奉行とか勘定奉行の基準石高は3000石であり、この石高数値は、本来これらの重要役職には家禄3000石クラスの高級旗本が就任するものという基準を示しているわけです。

 しかし足高の制が導入されますと、家禄1000石の者でも能力があれば江戸町奉行にも勘定奉行にも抜擢登用され、その場合には2000石の足高が在職中に支給されることになります。家禄500石の者が任命された時には、2500石の足高が支給されるということです。

 これでもって能力的には優れているが、家禄の低い裕福でない幕臣も高位の役職を務めることができ、人材登用の実をあげることができるとともに、幕府の財政支出の面からも、家禄そのものを引き上げることのなく一時的な差額支給で済むことから、支出節減の効果をももたらす制度として評価されています。

 つまりこれは役職手当としての意味をもちますが、実はこの制度のより重要な点は、保守派の立場、伝統的な身分秩序に対する配慮が行き届いているところにあるのです。

 この制度では、身分の低い者が抜擢登用されるけれども、江戸町奉行や勘定奉行の役職は、あくまでも3000石格の人間が就任するものという身分主義の原則がまもられていること。

 次に、この登用抜擢はあくまで一時的昇格なのであって、役職退任とともにもとの身分的位置へ戻され、支給されていた足高もなくなって本来の家禄だけになる訳だから、従前の身分秩序の枠組みを破壊することにはならないように設計されている点が重要なのです。

 これならば保守派も、安心して受け入れ可能となるでしょう。これもだめと言ったら、組織は破たんするしかないでしょう。能力主義人事の必要性は保守派だって痛感しているような状況なのです。

 この足高制は保守派・譜代層の身分的名誉心を傷つけることなく、身分主義の枠組みを破壊することなく、しかも新たな時代に対応した能力主義的布陣を自由に展開できる仕組みとなっています。足高制とは、かくも不思議にして巧妙な昇進・抜擢のシステムなのです。

 

 それ故、足高制による人材の抜擢登用は、革新派が支持することは当然ですが、保守派もまたこれならばと支持することになります。革新派も保守派も支持するわけですから、この制度による能力主義的昇進はきわめて円滑に実現することになります。

 表2はこの足高制による人材登用・抜擢人事の効果を示しています。その効果はまことに顕著であり、とくに財務長官である勘定奉行の任用については驚くべきものがあります。3000石相当の勘定奉行には、足高制の実施以前は、実際にも就任者の家禄は平均3000石あたりであったのに対して、実施以後は500石未満層からの登用がその半数近くを占めていることが分かります。

 さらに子細にその内訳を見ると、家禄が200石や100石といった者が少なからずおり、わずか35石といった足軽階層の者すら検出されるのです。

 

 足高の制は、徳川幕府が導入した能力主義的昇進制度として著しい成功を収めたと言うことができるでしょう。

 前回までに見てきた、農民の倅でしかなかった川路聖謨を勘定奉行にまで昇進させたものこそ、この足高の制のパワーでした。

 幕末における困難な国際条約交渉の最高主管として存分にその手腕を発揮させ、欧米列強の圧力に屈することなく対等条約を締結し、他のアジア諸国が歩まざるを得なかった植民地化の途ではなく、日本のために独立と近代化の途を切り拓いていくという偉業を川路になさしめたものこそ、18世紀初頭以来100年余をかけて形成し、確立させていた日本独自の能力主義的昇進システムに他ならなかったということです。

    

「徳川のドリーム」と呼ぶ所以のものなのです。

表1:足高制と基準役職高

5000石側衆・留守居・大番頭
4000石書院番頭・小姓組番頭
3000石大目付・江戸町奉行・勘定奉行・百人組頭・小普請組支配
2000石旗奉行・鑓奉行・新番頭・作事奉行・普請奉行・小普請奉行
1500石先手弓頭・先手鉄砲頭・京都町奉行・大坂町奉行・堺奉行
1000石目付・使番・徒頭・長崎奉行・伊勢山田奉行・浦賀奉行

表2:足高制による人材登用の効果

[大目付]
実施以後

以前
[町奉行]
実施以後

以前
[勘定奉行]
実施以後

以前
500石以下13(26%) 0 6(27%)023(41%) 1
500ー1000石 12(24%) 4(10%) 6(27%)08(14%)2
1000石台 15(30%) 11(28%)7(32%)15(65%)19(35%)18(47%) 
2000石台612(31%)2336(16%)
3000石台331226(16%)
4000石台050111
5000石台140204
50名39名22名23名56名38名