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笠谷和比古氏が語る、徳川家康の謎と素顔【1】
~薄氷の上を渡った「関ヶ原の戦い」~
昨今の戦国武将ブームの中でも、特に人気が高まっているのが「徳川家康」です。
2016年の大河ドラマ「真田丸」(NHK総合ほか)で内野聖陽が演じたコミカルかつ凄みのある家康像が人気を博し、翌年の大河ドラマ「おんな城主 直虎」では、主人公の直虎が夢を託す重要な役回りとなった情味のある家康を阿部サダヲが熱演し、新しい“人間的な武将・家康”象を決定づけました。
今回は、家康が調略を重ねて勝利を飾ったとされる「関ヶ原の戦い」の開戦に至る知られざる真実を、歴史学者の笠谷和比古先生がひもときます。
[コメント―「小山の評定」不在論について]
*「小山の評定」は無かったと言われることがありますが、誤りです。次の書状がそれが誤りであることを裏付けてくれます。これは、この慶長5(1600)年7月29日付で、豊臣武将の浅野幸長が下野国黒羽の領主大関資増に宛てた書状です。
尚々、去廿三日之御状畏入候、其刻小山へ罷越、御返事不申入候、以上急度以飛脚申入候、就其、
上方之儀、各被申談、仕置ニ付、会津表御働、御延引ニ候、上辺之儀、弥被聞召届上、様子可被仰出旨、内府様被仰候、我等儀、此間宇都宮ニ在之候へ共、結城辺迄罷越候、駿州より上之御人数ハ、
何も国々へ御返しニ候、猶珍敷儀候ハゝ可申入候、恐々謹言
浅左京
幸長(花押)
七月廿九日
大関左衛門督殿 御宿所
*これは同月23日付で大関から、会津征伐のために宇都宮城まで進出していた浅野幸長に宛てて送られた書状に対する浅野の返書です。
その頃、あいにく小山へ行っていて不在で、返事が遅れたことを詫びているのです。その小山では、上方の異変について武将たちが相談し、会津征伐は延期になりました。
上方の問題については、情報を詳しく集めたのち、対応策を命じる旨、家康様は仰せられました、という文面です。
*この書状によって、7月25日に「小山の評定」のあったことが裏付けられるのです。
*『MOC』の本文に、「小山の評定」の直後、上方の情勢が一変して家康側が謀反人扱いされる状況になったことを述べましたが、その新たな状況を受けて、家康は同盟を誓った豊臣武将たちに対して7月29日付で書状を送り、次のように述べています。
「大坂奉行衆別心之由申来候間、重て可令相談と存候所、御上故、無其儀候」
*大坂の三奉行たちが、私に対して謀反をしかけてきたとのことなので、「再度」協議をしたく思うのだけれど、あなたたち武将は石田三成討伐のために西へ向かってしまったために、それができないという文面です。
ここに「重ねて相談」(別の書状では「重ねて談合」)と記されており、再度の協議ということですから、この29日以前に、家康と武将たちとの協議のあったことが裏付けられるのです。
*最近でも、小山評定は無かったという議論をしている人がいますが、上記の浅野幸長書状のことを知らないことからくる謬論です。歴史学では史料を無視して議論をすることは許されません。
特に事件と同時進行で作成・授受されている史料は「第一次史料」と呼ばれ、それによって裏付けられる議論のみが正しい議論とされるのです。逆言すれば、「第一次史料」 の内容に矛盾したり、抵触する議論は謬論として退けられるということです。
笠谷和比古氏が語る、徳川家康の謎と素顔【2】
[コメント―慶長年間の豊臣・徳川二重公儀体制について]
家康は慶長8(1603)年に征夷大将軍となることによって自前の政権を構築しますが、豊臣家の立場も尊重しています。
家康は関ヶ原合戦後の全国的な領地配分において、京都から西には徳川系大名をいっさい配置せず、豊臣系大名を中心とした領地構成としました。
つまり京都から西は豊臣家が、東は徳川家が支配する東西分有の二重国制の形をとっていたのです。また権威の観点からも、家康や徳川家は征夷大将軍を、秀頼や豊臣家は関白という地位をそれぞれ政権のシンボルとする共存の形をとっていました。
私は、このような政治体制のことを
豊臣・徳川の「二重公儀体制」
と呼んでいます。
この理論を裏付ける重要な史料が近年、発見されましたので御紹介します。
*慶長11(1606)年、家康は全国の大名を動員して江戸城普請を行います。言うまでもなく徳川将軍の城です。この時、将軍は二代目の徳川秀忠になっていました。
*全国の諸大名を総動員した天下普請という形でしたが、豊臣秀頼は除外されていました。
これは豊臣家と秀頼の権威と地位が、並みの大名とは違って非常に高いことを示すものでした。
*豊臣家はこの普請に動員されていないだけでなく、実にこの普請を管理監督する立場で臨んでいたのです。
*この普請に際して8名の公儀の普請奉行(城普請の監督官)が任命されており、4名は将軍秀忠の家臣、2名は駿府の大御所家康の家臣、そして2名(水原石見守吉勝、伏屋飛騨守貞元)が豊臣秀頼の家臣でした。
*豊臣秀頼は将軍の居城である江戸城普請を管理する地位にあったということでした。
*旧来、豊臣家と秀頼は関ヶ原合戦ののち一大名に転落していたというのが定説であったので、豊臣秀頼の家臣が江戸城普請の監督官として臨んでいたというのは、何かの間違いではないかと疑念を抱かれていました。
*しかし今回、発見された史料は、これらの疑念を完璧に晴らすものでした。
覚
一 九艘 松平筑前守
一 五艘 丹後修理
一 八艘 堀尾帯刀
一 弐艘 古田兵部
一 壱艘 大村丹後守
一 壱艘 木下右衛門大夫
一 三艘 若狭宰相
一 弐艘 高橋右近
一 弐艘 伊東修理
以上三拾三艘
右之御舟数、上方ゟ之送状之ことく諸道具御改無相違様ニ可有御渡候、以上
伏屋飛驒守
二月廿五日 □□(花押)
水原石見守
吉一(花押)
戸田備後守
重元(花押)
内藤金左衛門
忠清(花押)
都筑弥左衛門
為政(花押)
神田与兵衛
将時(花押)
貴志助兵衛
正久(花押)
毛利藤七郎[毛利秀就]殿内
船御預ケ衆中
[白峰旬「(慶長十一年)二月廿五日付江戸城公儀普請奉行連署状」について
-笠谷和比古氏の学説・二重公儀体制論に関する新出史料の紹介-」
『史学論叢』47号、2017年3月]
*これは萩藩毛利家の家老を務めた福原家に残された文書です。
この「公儀普請奉行連署状」は、萩藩主・毛利秀就の「船御預ケ衆中」に宛てて、この文書に記されている諸大名9名から出された船の合計33艘について、間違いがないように改めた上で自分たちまで渡すことを命じたものです。
*船というのは、江戸城の石垣普請に使用する石材を運搬するための石船のことです。
*このような将軍の城である江戸城普請に際して、幕府側の役人と連名の形で豊臣秀頼の家臣である水原石見守と伏屋飛騨守が命令者の側に記されているのです。
*徳川公儀と豊臣公儀、この二つの公儀が併存し、協力しあうことによって日本全国の統治が行 われていたことを示すものです。